春色模様 2
「嘘……」
一人取り残された堂室内で、陽子は表情の抜け落ちた顔で、呆然となっていた。
一方で、鼓動はどんどん速くなって、制御不可能なほど。
「冗談……じゃ、ない、よな」
いつもと変わらない、平静な顔で先ほど堂室を出て行った男を思い出して、彼女は再び呟いた。
「遊ばれてる……とか……」
いや、そんな人物じゃない。口にしながらも、そんなことは陽子だってわかっている。そんな悪質なことをするような男じゃない。
だけど。
告白して、見事に無視されて、どん底に突き落とされた気分になって。
それも自分じゃ仕方ないか、と納得して、気持ちの決着をつけたところだったのだ。
(気持ちの決着をつけた、と言っても諦めるとかではなく、それ以上の期待をしない、そのまま好きではい続ける、という決着のつけ方だったが)
そして、ひとまず今後のこともあることだし、公私混同はしないようにと心に誓って、再び陽子は執務室に戻ったのだ。精一杯何事もなかったように装って、途中で放り出してしまった仕事の続きをするために。
そして、事は起こった。
これで仕事はひと段落、という状況になって。彼が一旦、冢宰府に戻る、という状況になって。
青天の霹靂のごとく、突然の浩瀚自身からの先ほどの回答。
『私も主上のことをお慕いしております』
咄嗟に何を言われたのか理解出来ずに、陽子の頭が真っ白になってしまったのは、仕方のないことだろう。
そして彼女の頭を真っ白にした張本人は、言い逃げよろしく、滅多に見せない微笑を見せると、堂室を出て行ったのだった。それ以上の言葉はなしで。素っ気なく。
「……いや、ちょっと、待って。本当に、何?」
当然のことながら、陽子は大混乱に陥る。時間がたって、頭が働き始めれば始めるだけ、混乱度は増していく。
彼女は両手で頭をかかえると、目の前で起こった状況を整理しようと、書卓に両肘をついた。
そんな彼女の耳に、扉を叩く音、続いて、この場で聞くことは珍しい友人の声が聞こえた。
「陽子、入るわよ」
* * *
応えも待たずに入ってきた鈴は、陽子の顔を見ると、少し驚いた顔をして見せた。
「何があったの?」
「……その前に、どうして鈴がここに居るんだ?」
ここはあくまでも表の公的な場で、陽子の私的な部分を預かる女御である鈴が出入りすることは滅多にない場所だった。
質問を逸らそうと思ったわけではないが、陽子はまず初めにそう言って、気持ちを落ち着けようとした。ほんの少しの時間稼ぎだ。
彼女からの当然の質問に、鈴は軽く肩をすくめる。
「虎嘯が、陽子が仕事中に突然堂室を出ていった、って連絡をくれたから、何かあったんだと思ってやって来たのよ。でもここまで来たら、もうあなたは堂室に戻ってるし、仕事中に邪魔するのも何だし、って思って近くで控えて待ってたってわけ」
「なるほど」
だからこそのこのタイミングか、と納得して、ふぅと、ひとまず息を吐いた陽子に向かって、鈴は先ほどの続きを尋ねる。
「で、何があったの?」
「…………気付いてるんじゃないのか?」
「陽子の口からちゃんと聞かなきゃ、合ってるかどうかわからないじゃない」
「…………」
逃すつもりはない鈴の様子に、陽子は降参とばかりに両手を挙げる。
まあ、頭の中を整理するにも、気持ちの整理を付けるにも、相談相手には打ってつけだ。どうせ遠からず話すことにはなるのだし。
陽子は覚悟を決めて、先ほどからの事の成り行きを語り始めた。
「実はね」
* * *
「ふぅーん」
話を聞き終わって、鈴はひと言、そう言うと、口を閉ざした。
そんな彼女に、今度はかえって不安そうに陽子が言葉を継ぐ。
「どう思う?いくらなんでも、からかってるとは思わないけど……、でも、なんか……納得いかないような……」
思いが通じて嬉しいとか、そういう思いよりも、疑いの方が先に立ってしまう。そもそもは自分から告白しておいたくせに、と思いはすれど。
眉根を寄せて、困惑した表情のままの陽子に、鈴はため息をこぼした。
「あたしもあまり人のこと言えた人間じゃないけど、陽子はもうちょっと自信を持ったほうがいいわよ。浩瀚様があなたを好きだって言うなら、好きってことよ。そこは信じてあげなきゃ、浩瀚様が可哀想だわ」
「だけど……」
「からかうとか、そういう性質の悪い冗談をするような方じゃないのは、陽子だってわかってるでしょう?」
「わかってる、けど」
煮え切らない陽子に痺れを切らして、パン!と鈴は、両手を彼女の目の前で打った。突然のことに、ぱちりと陽子が目を丸くする。
その顔に向かって、鈴は真顔で言い切った。
「じゃ、いいじゃない。両思いになった、ってことで万事解決よ」
「……両、思い……」
口にしたその言葉に、陽子は顔をまた赤くした。
そうやって改めて言われると、『両思い』という事実がなんとなく実感されてきて、彼女は今度はさらに戸惑ったように顔を赤くした。
そんな彼女と打って変わって、鈴が思案顔で呟いた。
「にしても、意外っていったら、意外ね」
その言葉を、別の意味に解釈した陽子が、真っ赤な顔のまま同意を示して頷く。
「だよな。どうして私を好きになってくれたのかな」
「え?ああ、そういう意味じゃないの」
鈴が苦笑をこぼして、それからちょっと表情を改めた。
「あたしが言ったのは、そういう意味じゃなくて……。慶って、前の女王の例があるから、女王の恋を忌むようなところがあるじゃない?だから、それをわかってて、それでも陽子の告白を受け入れた……ってあたりがね、意外だなってこと」
「……」
鈴の言葉に、陽子は押し黙った。
確かに慶においては、女王というだけで歓迎されない事柄だ。しかも予王が恋情のために道を誤った、というのは、まだまだ民の記憶に新しい。
そんな中、『女王』として即位した陽子が、『恋』をした、という事実は、慶の民に根強く残っている不信感を煽ることになるだろう。
『恋』というものは、陽子自身の自制の外のことであり、仕方のないことだ。理性でも理屈でもどうにかなるものではない。
だが、その恋心を告げられた相手が受け入れるかどうかは、また別の問題だった。今の慶の状態であれば、たとえ本心はどうあれ、断るのがどんな男にとっても上策であろう。
それをあえて、浩瀚は受け入れた。
陽子がさらに納得の行かない顔をして鈴を見やる。再び陥る、混乱状態。
だが鈴は、そんな彼女の視線を気付かぬ風で、ふぅーん、と一人頷いた。
「よほど自信がおありになるのね、浩瀚様は」
「え?」
陽子の顔に視線を落として、鈴は言い聞かせる口調で続ける。
「ご自分と恋愛状態になっても、陽子を守る自信と、陽子に道を踏み誤らせない自信。それがあるってことでしょ、この状況であっても、陽子を受け入れるってことは」
「……」
「さすがねえ、やっぱり年を重ねた男は違うわ」
感心した風に鈴はしきりと頷いた。
* * *
「冢宰と話がある。席を外してくれ」
王の命令に、堂室で仕事をしていた官吏達が礼をして立ち去った。
そして冢宰府の執務室に残ったのは、険しい顔の女王と、平静さを失わない冢宰の二人。
その顔を見ていると、やはり先ほどの告白は嘘だったのかと思ってしまいそうだった。
それほどの、平静さ。今までと何ら変わりのない、その様子。
陽子は狐につままれたような、そんな気がしてくる。
けれど彼女は内心のそんな戸惑いを抑えて、浩瀚に真向かった。
今、問題とすべきはそこではない。そんなことを確認するために、冢宰府まで駆け込んできたのではないのだ。
何と口火を切っていいのかはわからない。わからないが、用件が全く見当も付かないだろう相手に、先に口を開かせるわけにはいかない。
すぅ、と息を吸うと、陽子は覚悟を決めて、言葉を発した。
「さっきの、ことなんだけど」
続ける言葉をしばし考えて、
「よかったのか?」
陽子はそれだけを口にした。
あまりにもざっくりとした要領を得ない質問だと、口にしてから思ったけれど。
そしておそらく精一杯の虚勢を張っているけれど、それでも隠しようのない縋るような想いが溢れているだろうと、そう思ったけれど。
けれど浩瀚は陽子の話の主旨が見えて、彼女を意外に思わせるほどに、ふっと表情を和ませたのだった。
その顔に促されるような、あるいは焦るような気持ちになって、陽子はさらに言葉を継ぐ。
「つい……感情のままにあんなことを言ってしまって……困らせたかも……って」
実は鈴に指摘されるまで思いもしなかった、周囲の感情と思惑。
そこまで考えが及ばずに口にしてしまった自分を、陽子は恥ずかしく思い始めて
いた。
そこまで考えが及んでいれば、決してあんなこと、口にはしなかったものを。
彼を窮地に陥らせる気は毛頭ないのに。
頭を占めるのは、その思い。
自らの個人的感情で、他人を、ましてや一番大好きな人を苦しめるなんて、たまったものではない。
「謝っていただく必要はありませんよ、主上」
やがて聞こえてきたのは、そんな優しい言葉と、優しい声。
陽子は知らずうつむいていた視線を上げて、浩瀚を見る。
その視線を受け止めて、浩瀚が和ませた表情で彼女に一歩近づいた。
「あなたは、私の背中を押してくれたのですから」
「え?」
さらに近づいて距離が縮まった彼を陽子は見上げる形になった。こんな時ながら、その身長差にどきどきした。
浩瀚のまとう雰囲気が柔らかい。今まで感じたことのないその様子に、戸惑いながらもさらに胸が高鳴る。
そんな彼女に、彼は優しい眼差しで告げた。
「あなたの言葉で、私は一歩を踏み出す勇気を得たのですから」
「え……」
* * *
「あなたの言葉で、私は一歩を踏み出す勇気を得たのですから」
告げた言葉に、先を促す視線が絡む。
浩瀚は、目の前の、実際は小柄な女性を見下ろした。
目の前にすれば驚くほどその姿は小柄だ。細いために平均的な女性よりも小柄な気さえするほど。だが、ピンと背筋を伸ばして凛とした気配を漂わせる彼女は、それがために実際よりもよほど大きい印象を周囲に与えていた。
清々しい、その様。
彼女こそ、彼の仕えるべき主で、そして大切にしたいと思う女性だった。
そう、ずっと前から。
「あなたのおかげで、私は、あなたに近づく覚悟を得ることが出来た」
告げて、彼は一瞬瞑目した。
彼女が想いを打ち明けてくれなければ、一生自分は、この恋心を抑え込んだまま生きていっただろう、と。
想いを打ち明けることなく、適当な理由をでっちあげ、大人の分別と自分に言い聞かせて。
そんな彼に、彼自ら作った一線を越える勇気を与えてくれたのは、陽子の言葉、陽子の勇気だ。
彼女の言葉が、背を押した。覚悟を決める、最後の一歩を踏み出させた。
彼女が自分を恋い慕ってくれるならば、周囲の思惑などの雑事を理由に、自らを偽って拒絶するなど、論外だ。
どうあっても自分だけでは踏み越えられなかった、その境界線を、彼女自身が越えて近づいてくれたのだから。
ならば自分は、真っ直ぐに向けられる恋情を受け止めて、彼女と共に生きる。何があろうと彼女を守りぬく。
その決意をするのみだった。
* * *
真っ直ぐに自分を見つめてくる浩瀚に、陽子は息を吸うのも忘れそうになっていた。
やがて絞り出すように、再度、確認のために尋ねる。
「本当に、迷惑じゃ……ない?」
「はい」
「その言葉……信じてもいいんだな?」
「ええ」
浩瀚の迷いのない答えに、陽子が息を吐く。やっと呼吸が出来た、とでもいうように、その表情が解れた。
「よかった」
零れ落ちた言葉は、彼女の真情だ。嬉しい。と、思う心のままに、表情が微笑に変わっていく。
そんな彼女の変化を見守っていた浩瀚は、穏やかに、けれど有無を言わさぬ語調で彼女に言った。
「触れてもよろしいですか?」
「え?」
突然の申し出に、陽子は驚き、そして固まる。再び息が止まる感じがした。
けれど、元々許可をもらうつもりがなかったように、浩瀚は彼女の返事を待たずに、その手を伸ばす。
そして、その頬に触れた。
そのまま、ふわりとその感触を味わうように緩やかに撫でる。
「……」
陽子は、目を目いっぱい見開いたまま、浩瀚の顔を凝視するしか出来ない。
触れられてイヤだとかそういう話ではなく、何が起こっているのか、理解出来ない。
予想外の展開に、思考が追いついていない、という状態だった。
そんな彼女に向かって、浩瀚は表情を緩めると言い聞かせるようにゆっくりと、大切な言葉を口にした。
改めて、心をこめて。
「主上、お慕いしています」
しばらくして、動けずにいた陽子がふわりと微笑む。嬉しそうに微笑むその顔は、浩瀚をしてハッとさせるほど艶めいたものだ。
彼女は、頬を撫でる浩瀚の手に、応えるように自らの手を重ねたのだった。
2009 初春