水面の輪


 


 あの指に触れられたら、どんな感じだろう?―――
 机を挟んで目の前に立つ男の、書簡を持つ指を見つめて、そんなことを考える。
 晴れた日の静かな午後。穏やかで、なんとなく大気が重さを増して漂っているように感じる穏やかな日。
 まだ字を読むのが覚束ない自分のために、持ってきた書簡を読み上げる浩瀚の声に耳を傾けつつ、それでもどこか集中力を欠いたようで、そんなことを考えた。
 細くて、骨ばったような、指。
 そんなことを思ったこともなかったけれど、指ってなんだかいいよなあ。と思って、クスッ、とつい小さく笑いをこぼした。
 なんだかすごくイヤラシイ発想だよな、これって。
 あの指に触れられたら、どんな感じだろう、なんて。
 ふと目を上げると、笑声を耳に挟んだ浩瀚が、こちらに尋ねるような目線を向けている。軽く右手を振った。
「悪い。続けてくれ」
 苦笑を浮かべてそう言うと、また書簡を読み上げる声が響き始める。
 まるで歌のように鼓膜を刺激する、音。しばらく耳を傾けて、けれど、やはりまた、指に目が行く。
 綺麗な、指。
 ふと視線を落として自分の指を見た。
 淡い桃色に塗られた丸い爪を持つ、どうということのない、普通の手。浩瀚の指とは大違い。
 あの指は、いいな。
 そう思ってまた眺めていたら、いつのまにか、書簡を読む声が再び止まっていた。
 気づいて顔を窺うと、ばっちりと視線が合う。
 浩瀚が、何か含むところがあるような、大人な笑みを浮かべていて、なんと言葉をかけていいか、一瞬見失った。
 何も言えずに、ただ凝視してしまった自分に、先手を打ったように浩瀚の唇が動いた。
「それほど、私の指に興味がありますか?」
 そのものズバリと言い当てられて、気まずくなって、ゆっくりと瞬きをする。肯定するのも気が引けるが、ばれている以上否定するのも馬鹿らしい。
 その隙に、浩瀚の手が書簡から離れて、こちらに伸ばされた。
「………」
 ゆっくりとゆっくりと、近付く手、指。
 その行動に、まるで魅せられたように視線を離す事が出来なくなってしまう。
 次になされる動作に、考えを巡らせる事も出来ずに、ただ近付くのを見つめつづける。
 そして。
 その指が、頬に触れた。
「………」
 指に向けていた視線を、ゆっくりと浩瀚の顔に移すと、こちらをジッと見つめている、顔。
 落ちた沈黙に、普段なら聞こえないような外の雑多な音が、耳に響く。
「………」
 実際の時間にしては、ほんの数秒。けれど感覚的にはもっと長い時間の後。
 浩瀚の片側の唇が上がって、困っているように見える笑みを…苦笑を形作った。
「墨がついてますよ、主上」
「え?」
 離れた指先に付いている、薄い墨色。ビックリして、己の指でふき取ろうとすると、浩瀚に止められた。
「主上の手こそが汚れています」
「嘘っ」
 手を返してみれば、確かに左手の指の何本かが墨で汚れている。
「うーわー、いつの間に」
 急いで手を拭けるような布を探すために立ち上がる。
 と、そんな自分の背後で、書簡を巻き取る音とともに、浩瀚の声がした。
「さて、主上の集中力も失せてきたようですし、少し休憩いたしましょう」
「え、でも」
 振り返れば、もう書簡を片づけて、立ち去る素振り。先ほどとは違って、穏やかな笑みを浮かべている。
「お茶の支度をさせましょう」
「だけど」
「少し休憩を入れたほうが、効率がいいですよ」
「浩瀚は?」
 出て行く様子を見せる彼に、たまらず問うと、扉に手をかけたまま振り向いた。
「少し冢宰府へ。本日はもう少し主上の仕事が進みそうですから取ってきます」
「…まだ、させる気?」
「もちろんです。貴女もそれをお望みでしょう」
 サラリと答えて、後姿が扉の先に消える。
 姿が見えなくなると、体中からかき集めたような、長い吐息がもれた。
 自分も悪かったとはいえ、意味深な浩瀚の行動で作られた一瞬の緊張感。
 後に一人で残されると、それが緩み、次いで疲労感が襲ってきて、椅子に背を預ける。
「浩瀚も、性格悪い」
 敢えてあんな行動を取った事は明白。自分をからかったのだとわかって、悔しくなってくる。
 けれど、あの指が一瞬とはいえ自分に触れたという事実は変わらない。
「うわ、何これ」
 気が付けば、鼓動が速くて大きい。体中が鼓動に合わせて震えているかのように思えるほど。
 落ち着けようと、両手を頬にあてると、じわりと熱が伝わった。
 頬が、熱い。……きっと、赤い。
「うわー、落ち着けー」
 なんだなんだと思ってパニックになっていると、サラサラと、衣擦れの音が近付いてくるのが聞こえた。誰か女官が、浩瀚に頼まれてお茶を持ってくるのだろう。
 こんな姿を見られたら、何と思われるか。
 思って、さらに焦って、わけがわからなくなる。
「もー、浩瀚のバカ!」
 自分でも理解しがたい感情に、いない相手に小さい声で悪態をついて、扉が開く音とともに、机に突っ伏した。
 突っ伏した瞬間、彼の指が近付くビジョンが甦って、さらに鼓動が速くなっていた。

 

 

 


<後書き>
指フェチ大発揮のような…(笑)
普段ノーマルカプで書くことが少ないので、大変楽しいです。オトナな浩瀚様と内面はちゃんと女の子な陽子の話を書いていきたいなーと思いますv

タイトルに苦慮したのがよくわかるタイトルです(笑)

2004.5.17

 

→モドル