晴嵐


 


 侍女がお茶を出して客庁から出て行くと、また静寂が戻って、開け放たれた窓から入る外の音が、再び耳に聞こえ始めた。
 茶器を手に取り、浩瀚は目の前に座る人物に視線をやる。
 金糸の髪をまとうように、サラリと身に落とした人物は、話の糸口を探すかのように、出された茶器に手を伸ばすことなく、視線を落ち着かなく彷徨わせている。
 その様を眺めて、茶に口をつけつつ、浩瀚はただ、彼が…景台輔が口を開くのを待っている。わざわざこちらから話を促すような親切心は欠片も持ち合わせていなかった。切り出される話の内容が予測できるだけ、するつもりは毛頭ない。
 久々に与えられた休日を、浩瀚が王宮に与えられている部屋ではなく、尭天の私邸で過ごす事にしたことに特に意味はない。久々にこちらにある書籍を整理しようと思ったこともあるし、街の雰囲気を実際に肌で感じたかった、など、本当にたわいもない理由だ。
 ましてや、彼の到来を予期したわけではなかった。
 こんな昼間に、あえて私邸に戻っている浩瀚を理由もなく尋ねてくるほど、浩瀚と景麒は親しい間柄ではないのだ。その彼がわざわざ訪れるなど、理由は明白だった。
 やっと心を決めたのか、ふっと顔を上げた景麒の紫の瞳が浩瀚の瞳と合う。
 そして、言った。
「主上と、あなたのこと、知っております」
 噛みしめるように一言一言景麒は告げる。なんの変化も示さない浩瀚の反応に、その眉間に知らず皺が寄った。
「遊び事とは思えませんが、そんな関係はすみやかに解消していただきたい」
 景麒の真剣な瞳の奥に、暗い陰りとチラリと焦燥感のようなものを垣間見て、浩瀚の脳裏に、一つの像が甦った。彼がまだ州侯だったころ、一度謁見した事のある、女王とその傍に控えた麒麟の姿。今よりまだ若い気配をまとった麒麟と、内気そうに控えめな笑みを浮かべた若い女王が、寄り添うようにして浩瀚の口上を受けていた。 
 ああ、と胸に落ちるものを感じて、浩瀚はわずかに態度を和らげた。
 そんな彼に何を感じたのか、景麒の態度はさらに険しいものになる。
「王と側近の恋愛ごとは非難の対象となります。それがわからないあなたではないでしょう」
 景麒は一度そこで言葉を切って、改めて口を開いた。
「主上を、迷わせないでいただきたい」
 きっぱりと告げた景麒は射抜くように険しい視線を浩瀚に向けた。
 その視線を受け止めながら、浩瀚は手にしていた茶器を卓の上に置く。
 景麒の言う事は尤もだった。
 女王が恋の為に道を踏み外したことは、慶国の民の記憶に新しい。ただでさえ侮られる女王だ。またか、と非難をあびることは火を見るよりも明らかだ。
 浩瀚だとて、自分が当事者でさえなければ、どんなことをしても、そんな事態を避けようと画策しただろう。
 けれど、事は自分の事だった。自分の事で、そして、陽子の事だった。前の女王とは違うという、自信が、ある。
 浩瀚は、うっすらと笑みすら浮かべて、景麒の顔を真っ向から見つめ返した。
「もう、遅い」
 苦々しげな強い視線を浴びながら、浩瀚は言葉を続ける。
「私たちは、選んでしまったのですよ、台輔」
「あなたがそんなことを言っては」
 今、浩瀚の目の前にいるのは、道を踏み外す女王を止めようとして止めきれなかった、女王の恋した人。
 受け入れる事など、到底考えの他だったのだろうが、上手くあしらって女王を道に踏み止まらせる事も出来たはずだった。それをあえてしなかったのは、麒麟としての性か、彼自身の不器用さか、はたまた、彼なりの誠意だったのか。
 ともかくも、彼は誰よりも大切な人が自分の為に道を踏み外していくのを――落ちていくのを止める事が出来なかったのだ。
 その彼が、彼自身と浩瀚を重ねて見ていたとしても、少しもおかしくはなかった。彼にとっては、悪夢の再来として。
「主上はまだお若い。せめて年を重ねているあなたの分別に頼るしかないのは、おわかりと思いますが?」
 言葉を重ねれば重ねるほど、彼の不安は増すようにさえ、浩瀚には思われる。不安が増して、後悔が露呈してくる。
 傍から見れば、彼の尽くす言葉は、陽子を女性として見ているとしか取れないような発言だが、浩瀚にはもうわかっていた。彼はやっと見つけた主を失いたくないだけなのだ。それにはそれ以上の感情もそれ以下の感情も含まれてはいない。ただそれだけの単純で、だからこそ純粋な感情なのだ。
 それを区別できなかった前の女王を哀れと思うべきか。
 今になって浩瀚はやっと、予王と目の前の麒麟を、哀れむだけの気持ちの余裕が出来ていた。
 全ては不幸な運命の手の元に踊らされた、哀れな女王と麒麟。
 浩瀚はそんな思いを振り払うように、軽く首を振ると、強く言った。
「私たちは、大丈夫ですよ。台輔の心配なさるようなことにはなりません」
 その自信に、景麒の眉間の皺が深くなる。彼にとっては、謂れなき自信、としか受け取れない。
「主上はそんなことで道を踏み外すようなお方ではありません。―――もしそのような事態になれば、私がどんなことをしても戻してみせます」
「口にするのは簡単、というのをご存知か?」
「無論。しかし、私には自信がある」
 景麒の顔がいっそう不快に歪む。
 そう、彼にとっては不快でしかないだろう。思って、浩瀚は視線を窓の外へと移した。
 自分たちが関係を続ける限り、この麒麟を延々と苛(さいな)む事になるのだろう。忘れたい過去の傷を、ずっと塩水にさらしつづけるようなものに違いない。
 さすがに気の毒と思って、浩瀚は口調を和らげると、言葉を付け加えた。
「台輔には申し訳ないが、私はもう主上のいない人生など考えられないのです。台輔の心配は尤もですが、私は全力で彼女が道を踏み誤ったりしないようにするつもりです。ひとまずそれで許していただけませんか?」
「………」
 珍しく気持ちを露わにした浩瀚の言葉に、景麒はその瞳をわずかに見開いて、言葉をなくした。
 そして暫らくしてから、やっと口を開く。
「……その言葉、お忘れなきよう」
 言って、景麒は冷めたお茶に手を伸ばした。
「確かに」
 浩瀚の応えを最後に、再び室内に静寂が落ち、また外の音が耳に蘇えった。


 

 

 


<後書き>
景麒書こう、景麒ー。ということで景麒です。彼の性格なら、見て見ぬフリは出来ないでしょう。
驚いた事に、私、景麒好きなんじゃないの?というくらい彼を「いい風」に見ている。そんなに彼をいい人として思ってなかったんだけど(笑)
というか、ある意味伏線はりまくり。…予王の話はいずれきっちり書くつもりで設定が出来てるので、ついつい…。
ともかくも、これで保護者さまの了解は取り付けた模様ですね、浩瀚様!(笑)

 

2004.7.19

→モドル