the catcher of the shooting star


 



 シンと静かで、けれど仄かな明かりが灯っている自室を遠目に認めて、陽子の顔に困ったような微笑が宿った。
 久々に戻る自分を出迎える人物は誰だろうと少し考えてみるが、時刻が時刻だけに、ただ一人と見当をつける。もう深夜の時分だった。こんな時間に彼女の堂室に入り込んで主を待つような人間はたった一人だ。彼女の半身とも言うべき金色の獣は、そんな無作法な真似をしない。
 ひとつ呼吸をして気持ちを整えると、彼女は開け放ってある窓から堂室の中に降り立った。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
 ひとまず何事もなかったかのように声をかければ、中で彼女を待っていた男も、日常の続きのように変わらぬ風で応えた。
 彼女の自室の、彼女の書卓を我が物のように使って、書面がいっぱいに広げてある。そこで慣れたふうに仕事をしている浩瀚は、彼女の帰還に手にしていた筆を置いた。
 上げた顔は、久々に見るとハッとするほど怜悧な顔立ちだ。朝からずっと仕事をしているために疲労の色は見えるが、それでも崩れた様子はなく、すっと背筋が伸びるような気持ちを相手に持たせる。その姿に、陽子は改めて感心した。
 ここしばらく世話になっていた国の国主を思えば、なおさら。
「迷惑をかけたな」
「本当に。でも主上のことですから、何の収穫もなしに雁から戻られたわけではないでしょう?その成果次第で、仕方ないと諦めましょう。まあ、きちんと私に話を通してから出かけられるに越した事はありませんが」
「よく出来た冢宰で助かるよ」
 浩瀚の浩瀚らしい言葉に、苦笑を浮かべると、陽子は握ったままだった騎獣の手綱を放した。彼女が感謝をこめて撫でると、それにゴロゴロと応えてから、騎獣はふわりと飛び立つ。開け放った窓から、自ら厩に戻っていくために。
「さすがにこんなに遅いと、厩も人がいないかもな。明日虎嘯にちゃんと世話をしてくれるように頼んでおかないと」
 遠ざかる姿を見送って呟いた彼女のその体を、浩瀚は突然ぎゅっと後ろから抱きしめた。
「浩瀚?」
 彼にしては珍しい行為に、陽子の声に戸惑いの色が混じる。振り返ろうにも、抱きすくめられていて、身動くことが出来ない。
「え…と、どうした、の?」
「無事お戻りくださり、ようございました」
「無事って」
 確かに供の者も連れずにこっそり一人で雁まで出かけているのだから、危ないことは言うまでもないが、しかし景麒の使令が陽子にはいつも付いている。彼女自身の剣の腕もある。滅多なことが起きるはずがない。
 彼の言葉が理解出来ずに困惑する彼女を、抱きしめたまま浩瀚は息を吐いた。
「あなたは、私がどれだけ心配したか、わかってらっしゃらない」
「浩瀚?」
 そこでくるりと体を反転させると、目の前に迫った顔に、浩瀚は唇を寄せた。
 己の言葉を、口付けることで塞ぐために。



 浩瀚の心配。それは陽子が思うような類の心配ではなかった。本当は心配という言葉は、適当ではない。不安、恐れ。その方が彼の心情を如実に表している。だがあえてその言葉を使わないのは、彼なりの虚勢だった。
 浩瀚には自分の不安がわかっている。
 あるとき、ふと居なくなってしまうという、不安。神がかりに降り立った天女が、突如として天に戻ってしまうのではないかという、不安。
 それらは決して現実的な考えではないと彼自身わかっている。わかっているが、しかし、その幻像は浩瀚の頭から離れないのだ。
 だからこうやって、置手紙一つで長い間陽子が姿を消すと、不安が現実になったように思えて、怯えてしまうのだった。もう二度と戻ってこないではないか、と。
 この不安は、おそらく景麒の心情と通じるものがあるだろう。だが麒麟と違って王気を感じ取れないぶんだけ、浩瀚の方が恐怖は大きいはずだった。
 その結果、いつもは上手く誤魔化してしまう不安が、時として抑えきれずに現れる。衝動となって、彼を突き動かすのだ。そんな自分を胸の奥で自嘲する。
 慶の冢宰ともあろう者が、こんなことでどうするのか、と。
 腕の中の、彼にとっては至高の存在の片腕として、あるまじき情けなさだと。
 それでも。至高の存在に惹かれるがゆえに起こるこの人間じみた未熟な感情を、彼はどうすることも出来ない。いや、彼女を想うこと、それがゆえに起こる感情だとすれば、それさえも愛おしい気がしていた。
 恋情というものは、やはり諸刃の剣だと、認識せざるを得なかった。強さと弱さを併せ持つ、その功罪。
 口付けを繰り返しつつも、恋情に惑う自分を自覚しつつも、浩瀚はそれに溺れることはない。触れる彼女の温かさに、満たされて、焦燥感を覚えて、ただ行為を続けていく。



「んもう!」
 ある程度のところで浩瀚を引き離して、陽子は怒ったような顔で彼を見上げた。上気した頬が、色を誘う。
「なんだかよくわからないけど!」
 叫んで、陽子は浩瀚の頬に両手を当てた。
 頭がいい男は本当にこういう時困る、と彼女は思う。何事かを考えているのに、その感情が表に出る事はないのだから、対処の仕方が難しい。浩瀚と付き合ってずいぶんと経つが、それでもまだまだ彼は謎だ。
 ただその経験の積み重ねから彼の内心を察する力は身についてきているらしい。陽子は今回の彼の感情をなんとなく察すると、自分の思いを素直に口にした。
「心配しなくっても、私は無事に戻ってくるから。そんなにあっさりと死んだりしないぞ。ましてや逃げたりなんかしないから」
「そういうことではないのですが」
 微苦笑を浮かべた浩瀚に、陽子はにっこりと笑って見せた。
「そういうことだろう?だいたいな、お前は知らないかもしれないけど、私は王になって、ずいぶん我がままになったんだぞ?」
「ほう?」
 意外そうな顔になった浩瀚に向かって、陽子は両手をそのまま男の首に回す。
「一度手に入れたものを、手放すつもりなんかないんだよ。慶の玉座も、そしてお前も」
 まっすぐに見つめられて告げられて、浩瀚の心のうちがほわりと温かくなる。その顔は嬉しさの混じった苦笑になった。
「ものすごい殺し文句ですね、主上」
「だろう?」
 どこか威張って応える陽子だが、その頬はほんのりと赤く染まっている。
 初々しいのか、凛々しいのか。
 自分の感情を揺らすこの相手を、浩瀚はふっと気が遠くなるような気持ちで見つめた。気が遠くなる…もしくは陶酔して。
 先ほどまで雲海の上を飛んでいたために、乱れている髪を梳けば、赤い髪が指の間を通り過ぎる。その感触さえも、浩瀚の胸のうちに潜む不安を、払拭するのに充分な力があった。
 目の前にいるという、現実感。自らの腕の中にいるという、安心感。
 自分の手から離れれば、視界から消えれば、また同じ不安が頭をもたげるとわかっていても、その不安に怯えて、彼女を手放すことなどもう出来なかった。その実感が身を浸していく。
 じっと見つめる浩瀚の視線に照れて、陽子は自らその唇に軽い口付けを送る。
 そして、悪戯っぽい目をして、尋ねた。
「さて、深夜まで真面目に仕事をなさる冢宰どの。私の報告を先に聞く?それとも、明日にする?」
 そんな彼女の問いに、もちろん男の返事は決まっていた。














 

2007.2.22


<あとがき>
5万ヒット感謝企画、アンケート第2位・十二国記でした。アンケートに答えてくださった方・コメントを下さった方、どうもありがとうございました。
甘めな浩陽、ということで目指してみたんですが…甘い…?どうですか?(笑)
私の基本浩瀚さまはクールな印象なので、並大抵なことでは甘い雰囲気になってくれない模様。しれっと陽子が照れるような言葉や行為はしてくれそうなんだけど。
ひとまず今の私の精一杯の甘い浩陽でした。

 

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