キスの魔法 前編
「主上が寝ていない?」
「そうなんです」
鈴は憂いも露わな表情で、浩瀚の言葉にこっくりと頷いた。
王の執務室から出てきたところを、浩瀚は祥瓊に呼び止められたのだった。そのまま人気のない場所―――今の王宮にはそのような場所はたくさんあるのだが―――に連れて行かれて何事かと思っていると、そこには鈴が沈痛な面持ちで彼を待っていた。
そして彼の姿をひと目見た途端、彼女はたまりかねたように口を開いたのだった。
「どうして」
「それは……」
チラリと鈴が隣の祥瓊をうかがう。つられてそちらに浩瀚の視線が向くと、代わって祥瓊が申し訳無さそうに言った。
「仕事が本当に多いんですもの」
「でもそれは」
反論しようとした浩瀚を、彼女は急いで首を振って遮る。
「いえ、冢宰がちゃんと考えて下さっているのは知ってます。けど……陽子ったら、渡された仕事以上のことをやっちゃうんです。自分の勉強もそうですし、わからないとなると徹底的に調べようとするの」
「………」
祥瓊の言葉に、浩瀚の柳眉が曇る。
「もちろん、ある程度になったら私は陽子を執務室から追い出して、寝るように臥室に追いやるんですけど……」
「臥室にも色々持ち込んでて……あたしもどうにか阻止しようとはしてるんですけど、どうにも……」
「しかしそれでは、主上の体は持つまい」
「そうなんです」
「最近顔色が悪くって。だから休んでって言ってるのに大丈夫だって言い張って……無理してるんです」
そういえば、窓から入る光の加減だと思っていたが、先ほど会った主の顔色は少し悪かったような気もする。言われてみれば、いくつか思い当たる点がある。
浩瀚は、ため息をついた。
「無理やり休ませるしかないか」
「冢宰の言葉なら聞くかもしれないので、よろしくお願いします」
祥瓊は深く頭を下げる。
鈴も同様に、重いため息をつきながら、頭を下げた。そして小さく呟く。
「食べ物に睡眠薬を混ぜて眠らせようとしたんだけど、なぜかバレてしまうんですよね」
「………睡眠薬?」
「睡眠薬?」
とんでもない発言に、祥瓊と浩瀚は驚いて、鈴の顔を見つめた。
「ちょっと鈴、あなた何してるのよ」
「だって、言ったって聞くわけないじゃないの。あたしだって陽子のために必死なのよ!」
「必死でもやっていいこととやっちゃいけないことがあるでしょう!」
目の前でわぁわぁと言い合いを始めた二人を呆気に取られたように眺めていた浩瀚は、暫らくしてから小さく笑みをこぼす。そして独りごちた。
「主上は本当によいご友人をお持ちだ」
■ □ ■
「主上、よろしいですか?」
「え、浩瀚?さっきの件、何か問題があった?」
「先ほどの件ではありませんが、問題が」
ゆっくりと書卓に近付く浩瀚は、陽子の顔色と、違和感ともいえないほどだが、わずかに彼女の動作に緩慢なものを感じて、表情には表さないまま苦笑した。
それは、主の不調に気づかなかった己に対してでもあるし、真面目で熱心すぎる主に対してでもある。
「何が起こった?」
「重大な…そうですね、国家を揺るがす重大事、ですかね」
あまりにも大仰な物言いに、さすがに陽子の顔が怪訝そうにしかめられた。そして睨みつけるような険しい目線で、浩瀚を問いただす。
「お前がそんなに落ち着いているのに、重大事、なのか?もっとちゃんと言ってくれないと私にはわからない」
「落ち着いているわけではありませんよ。かなり自分を責めているのですが」
「自分を責める?」
さらに眉根を寄せた顔に、浩瀚は片手を伸ばすと、その顎を捕らえた。
「浩瀚?」
「失礼致します」
「浩…か、ん?」
手に力を入れ逃さないようにして、浩瀚は顔を近づける。同時にもう片方の手に持っていた、鈴からもらったばかりの睡眠薬を自分の口に含んだ。
そして、陽子が何事が起きるか理解する前に、反撃をする前に、唇を合わせて、口移しで薬をその口中に流し込んだ。
「ん……っ!」
突然の事に抗えずに、咄嗟に陽子はそれを嚥下する。喉が動くのを認めて、浩瀚は流れるような身のこなしで、近付きすぎた彼女から身を離した。
「なにを…っ、浩瀚!!!」
顔を真っ赤にして、あまりのことに言葉も出ない有り様の陽子に拱手して、浩瀚は自分の無礼を詫びる。
「ご無礼いたしました。しかし、主上にも責めがあることをお忘れなきよう」
「無礼って…責めって……お前いったい何を言って……!」
パニック状態の陽子に、いつもの事務的な口調で、浩瀚が告げる。
「主上の勉強熱心さは私も買っておりますが、度が過ぎてはかえってよろしくありません。本日はゆっくりお休みください」
いつもと代わらない冷静な浩瀚の態度に、そして告げられた内容に、混乱している頭でもやっと意図を理解して、陽子は苦々しげに呟いた。
「睡眠薬を、飲ませたのか…!?」
そう詰(なじ)るうちにも、彼女の目にトロリとしたものが漂い始める。
もともと限界だった体には、睡眠薬は駄目押しのようなものなのだ。効果も早い。
浩瀚の見守る中、暫らく反抗するかのように彼を睨んでいた陽子だったが、まるで一気に穴に飛び込むかのように、すぐに眠りに落ちていった。
■ □ ■
「主上がお眠りくださった。臥室にお連れするから、鈴、案内してくれ」
「ああ、よかった」
「ありがとうございます」
陽子を抱きかかえて執務室から出てきた浩瀚に、鈴と祥瓊は改めて礼を言うと、ホッとした様子で、先にたって歩き出した。
彼女達の後を付いて歩きながら、腕の中ですやすやと眠る主を、浩瀚は壊れ物を扱うかのように大切に抱きしめた。
<後書き>
私的設定として、鈴は陽子の私的生活面での側近、祥瓊は公的生活面での側近だと思ってるんですが。…ど、どうなんでしょう?(心配)
そして少しばかり鈴のほうがお姉さんなイメージ。
2004.7.11