キスの魔法 後編
「で、冢宰。いったいどうやってあの時陽子を眠らせたんですか?」
陽子に、睡眠薬の力によって無理やり休息を取らせてから三日後のことだった。その日やっと執務に復帰した主の執務室に、書簡を持って訪れようとしていた浩瀚を、先日と同じく、またもや祥瓊が呼び止めた。そして、まるきり再現するかのように、同じ場所に連れてこられて、鈴と祥瓊の二人と、また浩瀚は対峙している。
「どうやって、とは?あの時鈴から渡された睡眠薬を使ったのだが?」
涼やかな彼の眼差しの先で、だが、目の前の二人の様子は先日とは一変していた。鈴はいつもの態度に不思議そうな表情を浮かべており、祥瓊は剣呑とも呼べる目線を向けてくる。
「それはそうなんでしょうけど…陽子、素直に飲んだんですか?」
「……いや…」
その回答に、祥瓊の形の良い眉が寄せられる。
なるほど、と質問の意図を汲んで、浩瀚は祥瓊の怒りに納得した。彼女は無理やり陽子に睡眠薬を飲ませたことを怒っているのだ。
「確かに主上には申し訳ないことをしたが、事態は一刻を争うと判断したのでね」
穏やかに応えた浩瀚に、キッとなった祥瓊が噛み付いた。
「いくら冢宰でも無理やりって、どうかと思うわ!やっていいことと悪いことの区別くらいつくでしょう!」
「ちょっと、祥瓊。落ち着いてよ。勝手に突っ走らないで」
たしなめて、鈴がこちらは好奇心を露わに、浩瀚を見上げた。
「今さら何を言ってるんだ、って思われるでしょうが、まあ、あの時にそこまで考えが及ばなかったあたし達も悪いんですけど…。というかですね、陽子の様子が変なんです」
「変?」
浩瀚はあれから陽子に会っていない。睡眠薬の後遺症でもあるのかと、そんなことを疑った。
その表情を読んで鈴が首を振る。
「いえ、体がどうとかじゃなくって…その、態度が変なんですよね。………えーと…単刀直入に聞きますけど、どうやって陽子に睡眠薬を飲ませたんですか?」
その質問に、さすがの浩瀚も一瞬口ごもったものの、すぐに何食わぬ顔でサラリと答えた。
「口移しだが?」
「ああ、やっぱり」
「なんてことするんですかッ!」
鈴は得心した表情でため息をつき、一方の祥瓊は叫んで、いきり立った。そのまま浩瀚に詰め寄ろうとする彼女を押さえ込みながら、それでも鈴自身も詰(なじ)るような視線を向けた。
「それなんだわ」
「それ、とは?」
確かに浩瀚の行動は褒められたものではないだろうが、彼自身はそれほどの大事とも思っていない。彼女たちの反応…特に祥瓊の反応に、彼は訝しげな表情を浮かべてみせた。
そんな彼に、鈴に押さえ込まれた祥瓊が声を荒げる。
「どうしてそんなことしたんですかっ!」
「いくら言葉を尽くして申し上げたところで聞かれるような方ではないから、一番手っ取り早い方法を選んだのだが?」
「まあ、確かに」
「鈴っ!」
つい同意を示した鈴も同罪と、祥瓊が睨みつける。そんな彼女に、素直にごめんと謝って、鈴は浩瀚に視線を移した。
だが、祥瓊が先手を打って口を開く。
「冢宰も冢宰です!女心をわかってないにも程があるわ!女にとっての口付けの重要性がまるっきりわかってないんだから!」
「……」
涙さえにじませてわめき立てる祥瓊に圧倒されて、口を開く間さえ与えられない浩瀚だったが、彼女のそれほどまでの怒気に、自分の行動の失態を、なんとなく悟った。
鈴に目を向ければ、彼女がその視線を受けて、困ったような顔で頷いた。
「ちょっと祥瓊は大騒ぎしすぎですけど、基本的にあたしも同意見です。陽子のためを思ってくださった冢宰のこともよぉくわかるんですけど、ちょっと配慮に欠けると思います。それにきっと……」
「きっと?」
「いえ、いいです」
言いかけた言葉を飲み込んで、鈴は祥瓊を変わらずに押さえ込むと、彼女を引っ張りながら後ずさった。
「ま、とにかく。起こったことは仕方ないですから、ちゃんと謝るなり何なりして取り成してきてください。そうしないとこっちも落ち着きませんから」
「ちょっと鈴!陽子が冢宰に会いたいわけないでしょう?!」
「何を言ってるのよ。王と冢宰がずっと会わずにいられるわけもないんだから、さっさと片をつけるに越したことないでしょ。祥瓊も少し落ち着きなさいって」
「私は陽子のためを思って」
「わかってるから。……冢宰、早く行ってください。祥瓊を捕まえておきますから」
「鈴!」
「……すまない」
鈴の好意に甘えて、浩瀚は王の執務室に足を向けた。
そう、何はともあれ、鈴の言うとおり、本人に会って謝るのが先だった。
■ □ ■
案内されて執務室に入ると、浩瀚はその場に居た者たちを下がらせる。潮が引くように一気に人気がなくなった部屋の中で、部屋の主は落ちつかなげに身じろぎをした。
表面上は変わらないように装いながらも、戸惑うように視線を揺らしている主へと近づいて、ひとまず浩瀚は手にしていた書簡を書卓の上に置いた。
「先日来からの案件の取りまとめです」
「あ、ああ、ありがとう」
普段であれば真っ直ぐに見つめて返してくる瞳が、今日は他所にそらされていて、そのことに彼女の動揺が察せられる。同時に、その碧の瞳が自分に向けられないことに、浩瀚の胸に一抹の焦燥感がわいた。
だが、そんな自らの感情は綺麗に流して、彼は頭を下げると、さっさと本題に入った。
「先日は大変な無礼をいたしました。主上に不快な思いをさせてしまったようで、まことに申し訳なく思っております」
決して冷淡ではないが、淡々とした口調の浩瀚の謝罪の間にも、陽子の頬が朱に染まっていく。そんな自分が許せないかのように、彼女は片手で頬を押えた。
「私の配慮が足りませんでした。本当に申し訳ありません。……ですが、主上を思っての行動と思って、今回ばかりは許していただけませんでしょうか?」
「……許すとか、許さないとか、そんな問題じゃないんだ……。えと、その……はじめて、だったから……」
後の言葉は蚊の鳴くような声で。だが浩瀚の耳にはもちろん届いて、彼はわずかに息を詰めた。
頬を赤く染めて目線を落とした陽子の様子と、先ほどまでの鈴と祥瓊の態度。この二つを考え合わせて、今度こそ、浩瀚は自分の失態を実感として悟った。そう、彼は全く気にかけていなかったが、彼女たちにとって、事は想像以上に大事なのだ。
いつも洒脱と言ってもいいほど屈託なくさっぱりとした陽子と、今現在の彼女の態度。その差が、歴然とその事実を物語っていた。
前回会った時より、確実に顔色も体調も良さそうな陽子の様子に満足をしながらも、さすがに浩瀚は自らの行動に後悔を覚える。そして彼女の心を軽くしようと、取り成すように口を開いた。
「それは大変申し訳ないことをいたしました。ですが、あのことは単なる事故と片付けてくださればよろしいかと思います」
「な!そんなわけ……っ」
浩瀚の言葉に、つい顔を上げて叫んだ陽子は、変わらぬ顔で自分を見ている浩瀚とまともに目が合って、言葉を詰まらせた。
自分と違って、全く動揺もしていない、変わらぬ怜悧な顔。こちらを見ている視線も、申し訳ないと謝罪を含みながらも、穏やかなものだ。
じわり、と胸が疼いた。
彼にとっては、本当に言葉通り、事故の一つなのだろう。そんな些末事を大事(おおごと)にしてしまっている自分が恥ずかしくなった。彼の言うとおり、事故だったと、決して『キス』などというものではなかったと片付けてしまえばいい、とも思った。
だが、そんな理性とは別のところで、胸がざわつく。
(なんだ……?)
あれを事故として片付けたくない、と思う感情に気付く。事故なんてことを口にした浩瀚が許せないと、咄嗟に思った。
「……」
浩瀚が陽子の出方を待って、じっと視線を注いでくる。それが恥ずかしくもあり、ずっと見つめていて欲しいとも思った。
しばらく自らの感情を探るように葛藤していた陽子は、やがてため息を一つこぼした。
物事は至極単純なのだ。
(なんだ、そうか。突然で驚いたけど、別に嫌じゃなかった、ってことのほうが重要なんだ)
ショックと言うことで言うなら、事故で片付けようとした浩瀚の言葉のほうが余程ショックだった。
キスがきっかけだったとはいえ、いずれ遅かれ早かれ、この自分の感情には気付いたんだろう。そこまで陽子は思い至ると、それを逆手に取ってやろうかとさえ、思えてきた。
彼女は一度深く息を吸うと、気を取り直して、口を開く。
「…元はといえば私が無理していたのが原因だったんだし。浩瀚は悪くない…だから謝らないでくれ」
突然戻った、普段と変わらない陽子の口調と態度に、目の前の浩瀚の体から緊張が解ける。知らぬうちに自ら気を張っていたとことに、その時になって、やっと彼は気付いた。
「本当に、申し訳なく」
「いや、謝らなくていいから」
彼の更なる謝罪を手を振って拒絶して、陽子はやっと笑顔を見せた。
そして聞こえないほどの、小さな声で呟く。
「ちゃんと責任は取ってもらうから」
「え?」
聞き逃して問い直す浩瀚に、陽子は笑顔のまま首を横に振った。そして書卓の上に置かれた書簡に手を伸ばした。
「じゃ、話を聞こうか」
<後書き>
後編まで長らくお待たせしました…!
なんだか気付けば、陽子がとっても強気です(笑)強気な女の子は可愛いよね!
2006.11.1